デザインTシャツ【コウシュ】のブログ

アンディ・ウォーホルキース・へリング、と書いたら、
次に取り上げることになるのは、ミシェル・バスキア。

バスキアというと、
劇的な人生を駆けぬけ、ドラッグで死んだ27歳の若者、
有名人が最近その作品を手放したとか、何十億百億以上で競り落とした、
といったわかりやすい事象が取り上げられがちである。

そして、ともすると、
若くしてこの世を去ったカリスマアーティストにありがちなパターン、
とか、
ストリート系っぽいジャンルは受け付けない、
等と括ってしまう恐れもある。

その作品は、
まず取り扱っている美術館が少ないということと、
美術館で他の画家の作品にまぎれて展示されると案外目立たず、
観光客は目もくれずに通り過ぎていく。

バスキアとはいったい何者?

1960年12月22日  ブルックリン生まれ
両親はカリブ系移民の血筋であったが、父は会計士、母は芸術好き・教育熱心、
父母の母国語のフランス語やスペイン語も飛び交うインテリ家庭で育つ。
その後、両親は離婚、13歳のとき母は精神病院に入院し、父親に引き取られる

1977年  16歳
1つ目の高校をドロップアウト後、アート系のCity As高校在学時、
友人とともにふざけて、架空の宗教を想定したでたらめな格言と絵を落書きしはじめる。
その落書きには必ず「SAMO©️(セーモ)」というタグを書き添えた。

1978年  17歳
この頃既にバスキアは自分が有名になると信じていた。
2つ目の高校を中退、家を出る。
友人の家に泊まり、Tシャツを観光客に売ったり、倉庫で働きつつ、
あらゆるもの(キャンバスを買うお金がなく、扉や冷蔵庫にまで)に絵を描きながら、クラブに出入りし、様々なネットワークを築いていく。
SAMOのグラフィティ(落書き)はソーホーのギャラリー街やアートスクール周辺のいたるところに描かれ、
やがて、SAMOという匿名のアーティストは誰だ?と話題になる

1979年 18歳
たまたますれ違ったキース・ヘリングに正体がばれ、交流を深めるように。
バスキアは次第に自分がSAMOだと明かすようになる。
ケーブルテレビ番組「Glenn O’Brien’s TV Party*」でもSAMOは実はこの人、として紹介され、
その後何度もゲストとして呼ばれるようになる。
(*グレン・オブライエンは雑誌GQのコラムの長期連載などをした超有名編集者、
TV Partyにはデヴィッド・ボウイなど才能あるアーティストが多数出演)。
アーティストたちも多く通っていたthe Mudd Clubでは、アートキュレーターの実力者Diego Cortezと知り合う。
Cortezはバスキアの作品を気に入り、作品を売ったり、アートディーラーに紹介していく。
バスキアはまだまだ貧乏であるが、ちょっとした有名人になりつつあった。

1980年 19歳
100人あまりのアーティストたちによる「the Times Square Show*」(*アート界で新風を巻き起こしたとされるイベント)にて
大型のインスタレーションを発表し、評論家やプレスに好評を博す。
グレン・オブライエンの映画「New York Beat Movie/Downtown 81」に出演、
このギャラでやっと絵画の材料をまともに買い揃えることが出来、また、スペースも提供してもらい、
創作活動に集中できるようになる。

1981年 20歳
前述のDiego CortezがMOMA PS1で「New York/New Wave*」という展覧会を開催。
これにはキース・へリング、ロバート・メイプルソープ、アンディ・ウォーホル等も参加したのだが、
バスキアは20あまりの作品を展示し、多くのアートディーラーの目を惹き、大成功する
(バスキアは父に「俺やったよ!」と報告)。
これ以降、バスキアは華々しく活躍する。
キース・へリング主催のイベント等でも作品が展示され、イタリアのモデナで初の個展も開催。
さらに、PS1の「New York/New Wave」に来ていたギャラリーオーナーのアニーナ・ノセイから声をかけられ、
ギャラリーに所属。多大な報酬を受けるように。
評論家のRene Recardは雑誌Artforumで
「The Radiant Child」(キース・へリングのアイコンRadiant Babyからとった名前)と題し、
注目されるアーティスト複数人について論じるが、バスキアもここで紹介され、世界的にも注目されるようになる。

1982年 21歳 – 1983年 22歳
アニーナ・ノセイ・ギャラリーでアメリカで初の個展。
描けるスピード以上に絵はどんどん売れていき、バスキアは急激に金持ちになる。
この頃、以前も会ったことはあったアンディ・ウォーホルに正式に紹介され、かなり親しくなる。
他にも、
ロサンゼルスのガゴシアン・ギャラリーで個展開催、
世界的なアートイベント「Documenta 7」にも参加、
ホイットニー美術館の企画展で作品が展示されるなど、エネルギッシュに活躍。

1984年 23歳 – 1986年 25歳
メアリー・ブーン・ギャラリーに移籍。
個展のオープニングパーティには多数のセレブリティたちが駆けつけ、
New York Times誌の表紙には裸足にアルマーニのスーツといういで立ちの写真が載るなど、
人気は絶頂に。
しかし、一方で批判的な論評も出てくるようになり、
また、パーティーでちやほやされても
黒人であるがゆえにタクシーがとまってくれなかったり、高級レストランに入れないなど、
屈辱を味わう。
これがまたおもしろおかしくマスコミに取り上げられ、追い打ちをかける。
この頃、アンディ・ウォーホルとコラボレーション作品を作り始めるが、酷評を受ける。
ウォーホルとも疎遠になり、ドラッグの量が増えていく。

1987年 26歳 – 1988年 27歳
アンディウォーホル病死、バスキアは精神的に参り、さらにドラッグの量は増え、1人でスタジオにこもることも多くなる。
ニューヨークのBaghoomian Galleryでの個展は成功し、復活したと思われたが、
最終的にはドラッグから立ち直ることが出来ず、過剰摂取により死にいたる。

 

以上がバスキアの過ごした1960~1988年までの流れである。

1981年21歳のときに彗星のごとく突如有名になりそのわずか6年後には居なくなってしまった、
という説明もされがちであるが、
一歩一歩なぞって行くと、決して突然の話ではなく、
また、決して偶然ではなく、意志を持って濃い日々を送り、着実に有名になっていったことがわかる。

アーティストとしての成功は、作品自体への賞賛のほかに、
アメリカのアートビジネスブームとちょうど重なったり、
マイノリティにスポットを当てる風潮があったという部分もあるだろう(差別に苦しんだ一方でではあるが)。
しかし、何よりも、バスキアの圧倒的なエネルギーと上昇志向、そして、人を魅了する美しさとカリスマ性も
大きな要素であっただろう。

知人・友人たちはバスキアを、
「special」だった、「going to be big」ということが誰にも分った、と言っている。
それは映像を見ると垣間見える。

バスキアの作品についての見方は様々である。
酷評もあり、
ギャラリーでも例えばレオ・カステリギャラリーはバスキアの作品を受け入れなかった。
バスキア自身は
「”I don’t listen to what art critics say. I don’t know anybody who needs a critic to find out what art is.” 」
(アートを理解するのに批評家はいらない)と言っている。

正規の教育を受けておらず何もわかっていない、と言う人もいたようだが、
小学生時代から母親と共に美術館に足しげく通い、
本物のアートをしょっちゅう目の当たりにしていたので、
過去から現代にいたる画家の作品を把握し、体の芯からアートを理解していたのだろう。

では、バスキアの作品を初めてパッと見て
瞬時に、構造的に美しい!等と分かるかと言うと、そういうタイプの作品ではない。
今この時点で30年前のバスキアの絵を見て、斬新すぎて分からない、という感想は持たないもの、
理解するには、時間をかけて見たり、考えたりする必要がありそうである。
より身近に作品を感じるためには、
アートコレクターのLenore Schorrが、
「I could see it in his work, Picasso, Rauschenberg, they were all important influences, he had absorbed their work」
と言うように、
ピカソの「ゲルニカ」やラウシェンバーグの「モノグラム」を思い浮かべつつ、
絵ということでなく、彫刻、詩、歌などを含むジャンルにくくられない作品として見たほうが
良いような気がする。

ちょうど今、イギリスのバービカン・アートギャラリーでイギリス初の大規模なバスキア展が開かれている。
オークションによる注目度UPに伴い、これからバスキアの作品を見られる機会も増えるかもしれない。

 


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