デザインTシャツ【コウシュ】のブログ


ヨコジマに続き、本日はタテジマの話。

世界・日本の産業・ビジネスの歴史や文化史と切り離すことなくタテジマについて語ることはできない。

古来、絹や綿は中国やインドから世界各地に輸出されていたが、
それはかなり高価でごく一部の裕福な人々のみが手にすることができるものであった。
17世紀、オランダやイギリス東インド会社が大量の物資を交易するようになると、
ヨーロッパでより多くの人が絹や綿を身に着けることができるようになっていく。
特に、ウールよりも心地よく、絹より安い、
そして模様や色がバラエティに富み美しいインドの綿製品キャリコが
1670年代ごろからイギリスで大流行、
ファッションに敏感な人たちが多く買い求めるようになり、
イギリス東インド会社は多いに儲かる。

現存する衣服や絵を見ると、
タテジマの絹や綿の衣服が1700年代のヨーロッパで既に着られていたことがわかる。
イギリスの数学者Brook Taylorのパジャマ
フランスの裕福な市民の女性のドレス
フランス革命後の男性のウエストコート

ちょうどその頃、
インド南東部のチェンナイ(ポルトガルの統治下、サントメ(São Thomé)と呼ばれていた)から
オランダ船で細かいタテジマの綿織物が江戸時代初期の鎖国下の日本に渡ってくる。
遠い島からやってきたシマ模様の織物は「島もの」と呼ばれるようになり、
それが、「縞」に転じる。
国内で綿の生産が活発となり、庶民の服が麻から木綿に変わり始めた頃のこと。
次第に縞模様の綿織物が日本各地でつくられるようになっていく。

江戸時代前期、1700年前後の元禄文化が
上方(京都)、武士や上層町人を中心として友禅染や刺繍、染色を極めていったのに対し、
中期から後期にかけて江戸の町人や庶民層に文化の中心が移って行き、
その中、
縞模様の綿織物(サントメ縞→唐サントメ→唐棧織と呼ばれるように)が、
負けず嫌いの江戸っ子の、上方文化に対抗する粋な模様として広まっていく。

特に大流行したのは江戸時代の後期、
大奥に16人の妻妾を持ち50年間も将軍に在任した徳川家斉の世(1787-1837)以降のこと。
幕府は放漫経営だが規制もゆるく商人の活動は活発になり、町人の化政文化が花ひらく。

凶作、1837年の大塩平八郎の乱、
財政立直しをはかった天保の改革と不況、
奢侈禁止の徹底、
アメリカ船の浦賀来航、通商要求、
など、江戸の末期、明治維新にいたる大きな変化の中で
人々が着ていたのが縞模様。

世界に目を戻すと、
産業革命によりイギリスで機械製綿織物の大量生産が可能になり、
インドの綿織物産業は壊滅、
インドは、イギリス製の綿製品を消費する地となる。
他方、イギリスは、中国からの茶葉の輸入の対価の銀が不足すると、
インドでアヘンをつくらせ、
イギリス・インド・中国間で、綿織物・アヘン・茶の三国貿易を成立させる。
そこで1840年に起きたのがアヘン戦争。
清が敗北し、列強による日本への圧力の高まり、開国へとつながっていったのである。

タテジマを見たら世界交易や歴史のロマンを感じよう。

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